こだわりと視野狭窄のあいだ

高校グリークラブOB会の演奏会実行委員会の分科会(って長いなコレ…笑)。
ワタシは仕事を終えて夜9時30分少し前から参加した。
(他メンバーは夜8時過ぎから集まっていた)


今日までの間、ワタシが提案した自分のステージ案がさまざまな物議をかもしていたが、ワタシはこの場で、奇しくも今日が誕生日である皇太子さまのご発言にあるような穏やかで大きな心持ちに似せて(笑)、「ワタシのステージプランは白紙にさせて欲しい」と辞退を申し出た。
そして、ワタシが投げかけていたプランをどう扱うかが今日の打合せの大きな議題のひとつだったため、ワタシの辞退の申し出を受けつつも各自がプランについて思うところを述べるというプロセスを経て、このプランはめでたくお蔵入りとなった。
ワタシの中では、プランが(今度の演奏会で)実現できないことになったこと自体は勝ち負けでもモチベーションの低下でもないのだが、各自の意見は実に多様だった。
多様性であればまずは受け止めよう、と心に決めて打合せに臨んだので、ワタシは終始穏やかに接したつもりだったが、多様性のうちのいくつかは、今までのワタシだったらすかさず反論をしていたり高笑いをしていたであろう種類のものだった。


*ワタシのプランは芸術ではない。だからやる意味がない。やっても責任が取れない。
 (そぉかぁ。ワタシたちのやっていたことはゲイジュツだったのね)
*今の団員はそんな成熟したアプローチができるレベルにはなっていない。
 (あくまでもワタシたちは“迷える子羊”なわけね)


家に帰って嫁さんに「オレのステージ、やらないことになったから」と言ったら「えっ、どうして? おもしろいと思ったのに」という反応がかえってきた。
続けてひと言「みんな、もっといろんなもの聞いた方がいいんじゃない(爆)」。


芸術論を主張した先輩は音楽を生業にしている。少なくともワタシの10倍はいろいろな音楽を見聞きしているはずだ。
でもそこには、その圧倒的な量の差からではないところからくる隔たりがある。
皇太子さまがおっしゃるように、これは話し合いを続けていくことによって理解しあえる(あるいは、理解しなければならない)ことなのだろうか。
今のワタシには答えられない。